パリでピカソに認められた戦時中の画家藤田嗣治について

藤田嗣治は第一次世界大戦のさなか、パリで画家として成功を治めた日本人画家です。 藤田嗣治の生い立ちについては、比較的裕福な家の次男として生誕しました。家老の家柄で、軍医の父の元で生まれました。母を早くに亡くした藤田嗣治は、医者になることを望んでいた父に、14才の時に自分の希望する進路、画家になりたいことを告げました。 すると、嗣治の父は画材を買うために、大金を彼に渡しました。 その後、東京美術学校に入学をしたものの、当時、印象派の紫派の黒田清輝に、藤田嗣治の画風は評価されませんでした。東京美術学校卒業後、彼の妻、登美子と暮らしましたが、画家として生活をすることは困難でした。

留学先のパリで、第一次世界大戦が勃発し、最初の妻、登美子と別れなければなりませんでした。 孤独だった嗣治は、二人目の妻、フェルナンドと結婚をし、絵に打ち込んでいくのです。 初めての個展ではピカソに注目されたことが、彼の幸運を引き起こしたのでした。 そしてパリに来て転機が訪れました。 彼の出世作でもある「乳白色の肌」が絶賛な評価を受けることになったのです。 一躍、パリの売れっ子作家に藤田嗣治はなったのでした。 戦時中の狭間、藤田嗣治の絵はパリで称賛し続けられました。 彼の外での評価は、酒飲みでお調子者と比喩されたこともありましたが、実際のところは酒は全く飲めず、出かけるのは、必ず絵を描いてからと徹底していました。 表向きはお調子者としてふるまっていましたが、実際は、絵に関してはものすごく努力家なのでした。 1920年代、サロンの寵児としてもてはやされていた嗣治は、さまざまな勲章を受章しました。1929年には3番目の妻、ユキと一緒に日本へ帰国をしましたが、日本美術界での評判は芳しくはないものでした。

この後、再びパリに戻ったが、世界恐慌のこの時期、嗣治の人気は落ちて行きました。 4番目の妻、マドレーヌとともに、南米への旅を繰り返し、画風も色鮮やかな衣装、風俗を描くようになりました。 南米の旅から帰ってきた嗣治は、再び日本に戻り、5番目の妻、君代と暮らしました。日本で戦争画を嘱託された後、再びパリにもどったときには、第二次世界大戦がはじまったのでした。 再び日本に帰ってきた嗣治は、再び戦争画を描き始めました。しかし、終戦後、戦争画を描いた嗣治は、国賊と批判をされ、美術界での戦争責任を押し付けられるようにして、再びパリへ戻ったのでした。晩年はフランス国籍を得て、キリスト教の洗礼をうけました。 81歳で生涯を閉じた藤田嗣治は、日本ではあまり認められなかったものの、パリで才能が認められた日本人画家でもありました。  

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