フランス人として余生を送ったの藤田嗣治

藤田嗣治の余生は、フランス人として静かに過ごしました。藤田嗣治の生きた時代は、二度の世界大戦に見舞われた激動の時代でありました。藤田は、戦争をきっかけに祖国に帰り、終戦後に祖国を離れてフランスに戻ります。その後は二度と祖国に戻ることはなく、彼はフランスの郊外に終の棲家を築きました。フランスに戻った藤田は、頑なにフランス人として生きようとしました。藤田がフランスに戻った頃は、フランスのパリも戦争の傷跡が残されていました。藤田は画家の友人との再開を喜ぶとともに、静かに余生を送る準備を着々としていきます。藤田の終の棲家は、フランスの郊外に今でも残っています。彼の夫人が藤田嗣治の家をフランスに譲り、アトリエとして残されています。藤田箱の家で静かに創作活動を行なっていました。藤田嗣治は、フランスに協会を建設することを決意します。ここにも彼のフランス人として生きる決意のようなものが垣間見ることができます。藤田嗣治は、フランス人の視点を意識した絵を描いて来ました。フランスで認められるためには、フランス人の目にとまるような独自性のある作風であることが必要だと考えました。藤田は長い間独学にて技法を学んできた経験がここで花開きます。藤田特有の乳白色の肌は、フランス人の目に止まり、多くの東洋人画家の中でも最も成功した画家となりました。藤田が画家として全盛期を誇った第1次世界大戦後に比べて、戦後は実に静かな生活を送っていました。時々祖国から研究者や画家が彼を訪ねて来ましたが、彼からは日本にいる誰かを訪ねて行くということはありませんでした。藤田の晩年は、協会の建設に精を出す日々でありました。しかしながら、老体の藤田にとってそれは重労働に値するほど大変な創作活動でありました。また、藤田はフランスに戻ってから、彼の妻とともにフランス国籍を取得しています。日本の法律では重国籍は認められていないため、日本国政は自動的に抹消という形を取りました。フランス国籍を取得し、名実ともにフランス人となった藤田には、最後にやらなければならないことがありました。それは、キリスト教への改宗でした。この時にも彼は夫人とともにキリスト教の洗礼を受けています。洗礼を受けた藤田は、レオナールフジタと名前を改名しています。このように、フランスに帰って以降、藤田は静かに暮らしながらも、フランス人として余生を送るために精力的に準備を行なっていました。

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